プロフィール

 

はじめまして。井本慶太郎といいます。

 

今日はこのブログに来ていただいて、本当にありがとうございます。

 

「井本慶太郎ってどんな人なの?」と興味を持ってくれたあなた。この記事はあなたのために書いています。内容は:

 

  • 僕の生い立ち
  • 僕の人生の目標
  • 僕がブログを書く理由

 

の3つだけです。

 

それでは、どうぞ。

 

僕の生い立ち

 

幸せだった子供時代

0歳ごろの僕
生誕5か月ごろの僕です

 

僕が誕生したのは、平成元年の5月21日日曜日のこと。体重が3500gを超える超健康児として、この世に生を受けました。

 

父方母方の家族どちらにとっても初孫で、しかも長男だったため、家族からのありとあらゆる愛を受けて育ちます。

 

保育園との連絡帳によく母親が書いていたのは、僕のうんちの量でした。子どもにしても相当大きかったらしく、しかも毎回「うんこでたよー!!!」と自慢していたそう。

 

誕生月のこいのぼりが大好きでしたが、「こんぼーびー」としか発音できませんでした。

 

その後妹と弟に恵まれ、小学校に入ってからはよく家族でキャンプに行きました。しかも夏休みは農業をしている母方のおじいちゃん・おばあちゃん家で9割方過ごしていたので、心身ともに超穏やかな子ども時代でした。今でも都会より自然が大好きなのは、そのおかげだと思います。

 

辛かった中学・高校時代

 

そんな感じでのほほんと育った僕ですが、進学とともに厳しい現実に直面します。

 

当時の僕にとって、中学・高校は地獄のような日々でした。

 

その理由は3つあります:

 

  • 先生や先輩に気に入られなかった(特に体育会系男性教師とチンピラ系の先輩)
  • 学校の勉強にまったく興味がなかった(音楽と女の子にしか興味ない)
  • 夢を絶たれた

 

先生や先輩に気に入られなかった

 

まず、(特に体育会系の)男性教師と男の先輩に気に入られませんでした。

 

すげーのんびりしてマイペース(で、しかもイケメン)だったのが原因だったのか、荒ぶる系の先生・先輩からは8割方嫌われました。

 

担任の先生から暴力を受ける

 

まず中学1年生の時に、当時クラスの担当だった先生に何回か暴力を受けました。

 

というのも、道徳の時間にその先生(K先生と呼びます)が孤独な女子生徒の物語を読み上げている時に、「この人はOさんのような人ですね―」と、実際の女子クラスメートの名前を発したんです。

 

「いやいやそれは道徳的にアウトでしょ」と中坊なりに思った僕は、その授業後先生に「あの発言はおかしいと思います。Oさんに謝ってください」と言いに行きました。

 

これにカッときたK先生は、僕を隣の空いている教室に引きずりこみ、「お前は生意気かつた!(熊本弁で「生意気なんだよ!」の意)」と言いながら僕を机と椅子が無造作に並べてあるところへと突き飛ばします。

 

まだ体罰がまかり通っていた時代とはいえ、「間違っていると思ったことを言っただけでこの仕打ちか」というのが正直な感想でした。人生で初めて、権力が大嫌いになった瞬間でした。

 

手短に話すと、K先生のその後の対応にも納得いかなかったので反抗を続け、友だちと署名活動を始めて学期の終わりにはK先生を辞職に追い込みました。今思えば、「そこまでしなくてもよかったよね」と感じます。若気の至りということで許してください。

 

部活の先生に暴力を受ける

 

バスケ部だったんですけど、部活担当の先生からも嫌われました。

 

当時、「紺色のハーフパンツしか着用してはいけない」というわけのわからない規制があったんですけど、そんな規則がある事自体知らなかった僕は、まったくさりげなくないギンギラギンの赤色ハーフパンツを履いていき、先生から蹴りをくらいました。

 

その後も事あるごとに目をつけられ、そのうえ部活が一緒のチンピラ系先輩がたに嫌われてたこともあり、部活に行くことがストレスでしかなくなりました。

 

余談ですが、僕の小学校にはバスケ部がないのに、隣の小学校は全国レベルのバスケ部だったため、中学校初期は僕が一番ヘタだったんですよね(最終的にスタメンになりました)。つまり、先生にとっても先輩にとっても、僕はいいターゲットだったわけです。

 

そんなこんなで、中学校の部活動にはいい思い出がありません。

 

チンピラ系の先輩から嫌われる

 

思ったらすぐ顔に出るタイプなので、チンピラ気取りの先輩からはだいたい嫌われました。

 

当時なぜか流行っていたNew Eraのキャップを夜中呼び出されて買わされそうになったり、何かにつけてターゲットにされていた気がします。

 

今思えば、公園に呼び出されてボコボコにされる、というまでには至らなかったのでラッキーなほうだったかなと感じます。

 

とはいえ、先生と先輩に気に入られないという2つの大きな障害があり、中学校生活は特にストレスが多い時期でした。

 

学校の勉強にまったく興味がわかなかった

 

勉強はできるほうでしたが、授業で教わることにはほとんど興味をもてませんでした。興味があったのは英語と社会の歴史と地理のみで、あとは退屈でしかたなかったです。

 

理由は、学ぶ意味が理解できなかったから。

 

先生たちは「高校受験のため」、「大学受験のため」という大義名分を掲げて僕ら生徒に知識を詰め込もうとしてたけど、「じゃあ何のために高校・大学に行くんですか」→ 「いや、いい学歴を身につけていい職を見つけるためじゃないか」→ 「じゃあ何のためにいい職をみつけるんですか」→ 「いや、社会に貢献しつついい給料をもらって家族を養うためじゃないか」 → 「じゃあ、ラブホテルでも経営してお金稼げばいいじゃないですか。そのために勉強って必要ですか」

 

そんな感じの屁理屈ばかり言っていた僕。ロック好きで反骨精神たっぷりだったこともあり、尾崎豊を自分の都合のいいように解釈して先生や学校のシステムに反抗してました。

 

それでも祖父母のために頑張った

 

体育会系の先生から見ればおそらく「このクソガキ」的な僕でしたが、学校でいい成績を保てるぐらいには勉強しました。

 

理由はシンプル。おじいちゃん・おばあちゃんが大好きで、心配をかけたくなかったからです。

 

僕は部活がテスト休みに入ったり、時間に余裕があったりした時は、自転車をこいで祖父母に会いに行ってました。おじいちゃん・おばあちゃんっ子だったので、しばらく会わないと会いたくなるんですよね。

 

もちろんおじいちゃん・おばあちゃんに会いに行けば、話のトピックは学校になり。そこでちゃんといい成績をとっていい生活を送れてなければ心配をかけることになるので、心配をかけない程度に頑張ろうと決めてやっていたわけです。

 

音楽で生きていきたいという夢を絶たれた

 

高校に進学し、さらに勉強する意味がわからなくなった僕は音楽に走りました。

 

親父が元ドラマーで地元ではちょっとした有名バンドのメンバーだったこともあり、自然と親の跡を追うようにドラムを始めることに。

 

違う高校の友だちとパンクバンドを結成し、今は夏木マリさん含む様々なアーティストのバンドでベースを務めるメンバーの家で練習を重ねる日々を過ごしました。

 

日を重ねるごとに音楽に対する情熱が膨らんでいき、1年たったころには将来音楽で食っていくと自然に思うほどになっていました。

 

ハイスクールのイベントや自分たちで計画したライブイベントもバリバリこなし、バンドが生活の中心でした。本当にやりたいことが見つかったので、学校とか勉強とかもうどうでもよかったんです。

 

しかし、この夢はかんたんに崩れ落ちてしまいます。

 

鎖骨を骨折してバンドを去ることに

 

結論から言えば、高校2年生の秋に鎖骨を骨折して全治6か月という診断がおりたので、バンドを去ることを余儀なくされました。

 

ちなみに、鎖骨を骨折した理由は地元の友だちとすもうをとったことが原因です。今では笑い話ですが、右鎖骨粉砕骨折で腰から骨を移植する手術が必要、手術後1~2週間は入院、その後もギブス生活で右腕使えない、そして全治6か月という、当時は笑える要素ゼロのつらい経験でした。

 

しかもこのころはバンド活動が真剣味を増していて、700人規模のライブハウスで対バンしようとしていた時期だったので、バンドとしても骨折した僕を待っている時間がなく。不本意ながらも、メンバーから離脱してほしいと告げられました。

 

というわけで、夢に向けて進む充実した毎日が、一瞬にして崩れ去さります。

 

全治に6か月かかるうえ、治っても右肩に違和感しか無い状況で、他のメンバーとバンドを組む気にもなれず。その後の僕は腐るに腐りました。

 

勉強せず、目標もなく、ただただ友だちと酒のんだり、タバコ吸ったり、カラオケいったりと、しょうもない遊びに明け暮れる毎日。

 

何か新しい夢や目標が欲しかったけど、高校時代にそれが見つかることはありませんでした。

 

心身ともに腐った大学時代

 

大学附属の高校を卒業し、エスカレーター式で地元の大学に入学した僕の腐り具合はさらに加速します。

 

その入学した大学とは地元でも有名な遊び人大学で、意識高い人とかほぼいなかったんですよね。

 

「高校は我慢して勉強したんだから、大学では遊ぶぞ!」という意識の人が大多数を占め、やることはサークルの飲み会、学部の飲み会、イベントの飲み会と、1週間のスケジュールをどれだけ飲み会で埋められるかがメインの関心事っていう世界でした。

 

入学したては目新しさから飲み会に参加していたものの、1年も経つころには、高校でやってたことと何も変わらない不毛な大学生活にうんざりして何かやりたいことを探そうと思い始めます。

 

本を読んで世界が変わる

 

大学生活にまったく興味がもてなくなったころから、本をむさぼるように読み出しました。どうすればもっと楽しく充実した生活を送れるようになるか知りたくてしょうがなかったんです。

 

その中でもこの2冊が僕の人生を変えました:

 

  • 7つの習慣
  • 思考は現実化する

 

まさに自己啓発本の王道とも言える2冊ですけど、このころのちっぽけな僕の価値観はこの2冊によって跡形もなく崩壊しました。

 

そこで、もともと英語に強い興味があった僕は、「こんな素晴らしい人たちを輩出するアメリカという国で一度学んでみたい」と思い出します。

 

また、僕の人生の目標のなかに「かっこいいおじいちゃんになる」という目標があります。前述のとおり僕はおじいちゃんっ子なので、おじいちゃんに対するリスペクトが半端ありません。そのため、僕のおじいちゃんみたいにかっこいいおじいちゃんになるにはどうすればいいんだろうと常々考えていたんです。

 

僕のかっこいいおじいちゃんの定義の中に「国際的な経験が豊富で、多言語をしゃべれる」という基準があります。その理想像に近づくためには、英語の習得が欠かせません。そういった理由からも、大学で腐るよりはアメリカに留学したほうがはるかに自分のためになると思い、大学を秒速で退学しました。

 

目標が決まれば行動は速いほうなので、考えが固まってすぐに両親に相談し、準備を整え、成人式を終えた2010年の夏に南カリフォルニアに単身渡米します。

 

アメリカ留学時代

友だちのサンクスギビングパーティーに呼ばれた時
友だちのサンクスギビングパーティーに呼ばれた時

 

初めての海外旅行が南カリフォルニアへの留学だった僕は、日本と何もかもが違うアメリカに圧倒されまくります。

 

アメリカ時代の思い出は濃ゆすぎてすべてをお話するのは難しいので、次の3点だけに的を絞ります:

 

  • とにかく英語とお金に困る
  • UCバークレーに合格も進学できず
  • 精神世界にのめり込む

 

とにかく英語とお金に困る

 

僕が渡米して初めて住んだのは、カリフォルニア州のアーバインと呼ばれる街。初めて生で見るアメ車がでかすぎて毎日ビビり倒していました。

 

英語、全然わかりません

 

渡米したての僕の英語力は、当時流行っていたニンテンドーDSの「えいご漬け」と海外ドラマの「The O.C.」で勉強したレベルだったので、とにかくアメリカ人が何をしゃべっているかちんぷんかんぷんでした。

 

カリフォルニアにはPanda Expressという中国系チェーンレストランがあります。カリフォルニア新参者であれば誰でも行くようなレストランなんですけど、僕は初めて行った時に店員さんの「For here or to go?(ここで食べますか? それともテイクアウトですか?)」という質問すら理解できず、愕然としたことを覚えています。

 

「うわー… ファーストフード店での受け答えもできねーのか… 道のりは長いな…」と、カリフォルニア特有の強い日差しの夕日を眺めつつ、今や海の向こうにいる家族のことを思い出しながら、アメリカに来たことを身体で実感しました。

 

その後の話を割愛して簡潔に言えば、英語を習得するのにはかなり長い時間がかかりました。僕は「ネイティブにネイティブと間違われるレベル」の英語力を目標としていましたが、そのレベルに達したなと思うまでには3~4年の月日を必要としました。

 

お金、全然ありません

 

英語力のなさに加えて、お金も全然ありませんでした。

 

渡米後しばらくはオカンから仕送りしてもらっていたものの、僕の家族は日本の一般的な中流家庭なので、物価が高いカリフォルニアの生活を支える資金をパッと出せるような経済力はありません。

 

なので、ボランティアの名のもとにお金を稼げる治験をしたり、知り合いの日本食レストランを手伝ったりして、何とか生活費を稼いでいました。

 

日本の大学は入学が難しくて卒業が簡単ということで有名ですが、アメリカの大学はそれの正反対です。入学は比較的簡単だけど、クラスのペースについていくには相当な量勉強する必要があります。

 

僕はそんな感じのアメリカの短大でほぼオールAの成績をとりつつ、生活費を工面する生活をしていたので、最高に多忙な毎日でした。

 

UCバークレーに合格するも入学せず

 

多忙を極める生活をして3年がたったころ、僕は全世界でもトップ10に入る大学であるUCバークレーに合格します。

 

世界のエリート校で学んでみたいという夢が実現化した瞬間でした。

 

しかし、前述したように僕の家族は日本の一般的な中流家庭なので、アメリカの目玉が飛び散りそうになるぐらい高い大学の学費(年間200~300万とか)を支払うめどはたたず。「留学中にビジネスを立ち上げて学費を工面する」という僕の安易な計画はとっくの前に頓挫していたので、知り合いに連帯保証人になってもらって借金するぐらいしか方法は残っていませんでした。

 

しかもその時期に、交通事故に巻き込まれて車が大破してしまったことを原因にアメリカでのビザ延長が難しくなり、政治的な雲行きも怪しくなっていたので最終的にアメリカから離れることを決意します。

 

夢にまで見たアメリカの4年制大学キャンパスライフをおくれなかったことはとても悔しかったですが、実際に世界のエリート校に合格できたし、そのおかげで英語力も身につき、カリフォルニアにという最高にオープンな場所に住んだことで視野が圧倒的に広くなりました。この経験をできただけでも、挑戦のしがいがあったと今は思います。

 

精神世界にのめり込む

 

2014年から2015年は交通事故に遭ってからアメリカを離れる準備を整える期間でした。学校も卒業して時間ができたのをいいことに、このころから僕は徐々に精神世界にのめり込んでいきます。

 

簡単に言えば、まずこのウェブサイトにあるようなドキュメンタリー映画を見まくりました。

 

このように多様なドキュメンタリーを見て今の世界にある問題を俯瞰して見た時、心と身体と魂のつながりがいかに重要であるか、そして今の日本やアメリカの熟成しきった資本主義社会ではそれがいかに欠けてしまっているかがなんとなく理解できました。

 

これに影響を受けた僕は、瞑想をしだしたり、超健康的なスムージーをつくりだしたり、フローティングタンクに行ってみたり、毎日運動したりと、自分の精神性を高めるためにあらゆる努力を始めます。

 

時は流れて2015年。精神世界にどっぷり浸かった僕は、日本帰る前にもっと世界を見てみたくなり、ペルーとヨーロッパに旅することにしました。

 

前述しましたが決まれば行動が早いのですぐに100万ぐらいの資金をため、5年間のアメリカ生活に終止符をうってカリフォルニアを後にします。

 

ペルー・ヨーロッパ旅

 

このペルー・ヨーロッパ旅の大きな目的は2つ:

 

  • ペルーのシャーマンの儀式を受けること
  • 少年時代からの夢だったヨーロッパを見て回ること

 

でした。

 

ペルーでシャーマンの儀式を受ける

 

カリフォルニアで精神世界にのめり込んでいた僕は、よくペルーのシャーマンについて耳にするようになりました。

 

ペルーではアマゾンの先住民が使う秘薬があり、シャーマンがしきる儀式でそれを摂取することで世界の見え方が変わったり、うつや依存症の回復などの効果があるそう。

 

当時のアメリカではすでにこの儀式の認知度が高まっており、リトリートを開催しているツアーを見つけたのでそれを頼りにペルーのイキトスに旅立ちます。

 

 

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Perfect rainbow welcomed me in #Iquitos #Peru #バガボンドしています

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ペルー到着の初日は他のツアー参加者とイキトス周辺を探索し、上のような二重虹にも恵まれました。

 

次の日にはボートに乗り込んでアマゾン川の奥地へ。先住民が住む地域に立てられた宿泊施設に着き、初日の夜にさっそくカエルの毒を腕に刷り込まれたり、ローストしたタバコの葉を鼻の穴に吹き込まれたりします。

 

タバコの葉を鼻の穴に吹き込まれる僕
タバコの葉を鼻の穴に吹き込まれる僕

 

話を先に進めると、アマゾン滞在1週間のあいだに本番の儀式を4回受けました。

 

体験した詳しい内容については他の記事にまとめますが、「とんでもない世界を見た」というのが正直な感想です。

 

僕が見たその世界は愛であふれていて、僕らが育った日本の世界のような、怒りだとか、嫌悪だとか、そういったネガティブな感情がある世界を超越してできた未知の世界。

 

未知、だけど本質的頭では理解不能、だけど魂は完全に納得信じられない、だけど何よりも信じられる

 

そんな、なんとも表現し難い体験でした。

 

 

 

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儀式後、僕が感じたのは「もう今までいた世界には戻れないんだな」という感覚。

 

知ってしまったことを知らなかったことにはできない。なので、これからは新しい目で世界を見て生きていくしかない。これがいいことなのか、悪いことなのか、僕にはわかりませんし、わかったふりをするつもりもありません。

 

でも、ただひとつ言えるのは、この世界に生まれて来て良かったということ。

 

人間としてこの世界に生まれて、僕が僕として今ここにいることがどれだけ壮大で奇跡的なことであるか

 

それが理解できた気がしたので、後悔はまったくありませんでした。

 

 

 

ヨーロッパを旅する

 

ペルーでの冒険を終えた後、僕はヨーロッパへと向かいます。

 

この旅で訪れたのはスペイン、イタリア、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、スウェーデンの7ヶ国。

 

 

 

 

 

海外には21歳の時から在住してましたが、バックパックをしたことがなかったし、ペルーでだいぶ勢いついてたので毎日テンション高めでした。

 

憧れのヨーロッパの街並みを見れたし、友だちたくさんできたし、食べ物美味しかったし… とにかく最高でした。

 

余談ですが、このバックパック旅行中にオランダに恋に落ちました。今現在、家族でオランダ移住に向けて準備中です。

 

アメリカを出発してから2か月。スウェーデンのストックホルムで旅を終え、僕は日本に帰国します。

 

帰国後カウンターカルチャーショックに陥る

 

アメリカ滞在5年と既存の価値観が崩壊したバックパックの旅を終えて久しぶりに戻る故郷は、とても懐かしくて温かかった。久しぶりに家族や友だちと過ごす時間ができて、目まぐるしい旅のリズムから開放された感じがしました。

 

しかし、そんな穏やかな気持ちも、故郷で過ごす時間が「久しぶり」から「日常」に変わっていく中で、徐々に息が詰まるような気持ちに変わっていきます。

 

本当の気持ちを共有できる人が周りにいなかった

 

帰国後ショックとして大きな壁になったのは、アメリカ滞在やペルー・ヨーロッパ旅を通して得た新たな価値観や気持ちを吐き出す場所がなかったことです。

 

今までの僕の生活の基盤はカリフォルニアにあって、精神世界への興味を共有できる友だちはそこにいたけど、故郷の熊本にはその範囲でつながれるコミュニティがありませんでした(というか当時はまったく知りませんでした)。

 

当然といえば当然ですが、カリフォルニアやペルーで得た価値観をすべて地元の友だちに話しても完全に理解してもらえることはなく。理解は示してもらえるものの、5年の時を経て僕の考え方や価値観は完全に変わってしまっていたので、なかなか地元のコミュニティに再適応することができませんでした。

 

「それはそれで良し」と割り切れればよかったんですが、無理でした。カウンターカルチャーショック(母国から離れた異国でしばらく生活した後に帰国すると感じる違和感)だったんだと思います。

 

そのような心境だったため、帰国後しばらくは引きこもりがちになりました。昔の友人にもあまり連絡をとらず、家で一日のほとんどを過ごす日がほとんどだったと思います。

 

日本に適応できないことから劣等感の塊になる

 

帰国してからしばらくは引きこもりになっていたので、仕事をすることもありませんでした。

 

また世界を旅したいという願望が強くあったので、ノマドワーカーになるためにリモートの仕事をしようとオンラインで日本語を教え始めたりなどの努力はしました。しかし、あまり儲かる仕事ではなく、在宅ワークということで引きこもりに拍車がかかり。

 

家にいれば妹や弟はちゃんと仕事をしてるし、「この人、アメリカで勉強してきたはずなんだけど仕事すらしてないじゃん」という目で見られているような強迫観念に取り憑かれ、「俺、何やってんだろう」と負のループに飲み込まれていきました。

 

いろいろあがいてみたものの、その状況を打破できることもなく。2015年の終わり頃には、劣等感の塊でしかなくなっていました。このころの僕は、灰になったあしたのジョーよりも顔色が悪かったと思います。事実、当時の僕が歩いているところを先輩が見かけたことがあったのですが、後日「死人のような顔してたよ」と言われました。

 

回復が見込めなかった僕は、とにかく何か行動しようと思い、嫌でしかたがなかった就職活動を始めます。

 

東京で就職するもうつを発症

 

結論からお話すると、就活を続けなんとか東京でIT関係の仕事にありついたものの、僕は1年もたたないうちにうつを発症して辞職します。

 

今考えれば、うつになったのも当然だったと思います。その理由は:

 

  • 恐れや心配といった感情をもとに就職を決めた
  • 夜勤がある仕事だった
  • 海外生活後の東京はマジで辛かった

 

の3つが大きかった。

 

恐れや心配といった感情をもとに就職を決めた

 

僕が就職したかった理由は、その職に就きたかったからではなく、今の嫌な状況からとにかく抜け出したかったから

 

「親にお金だしてもらって留学したのに、帰国してもお金ないし引きこもり」という激しい劣等感をどうにかしたい一心で職を探しました。でもそれは、「正社員にならないとヤバいよな…」とか「低収入のままでは生きていけない…」などといった恐れや心配といった感情から生まれた欲望であり、「世界を旅しながら働く」とか「精神世界に対する知見を深める」といった、僕が本当にやりたいこととはかけ離れていたんです。

 

食いっぱぐれないように、社会の基準から脱線しすぎないように、などという心境が先行していては自分が本当にやりたい仕事を見つけられるわけもなく。

 

就職した会社はとてもいいところだったんですが、どうしても仕事を好きになることはできませんでした。

 

夜勤がある仕事だった

 

就職した会社はIT系の人材派遣会社で、派遣先の企業に出向して働くというスタイルでした。

 

英語力をかわれた僕が任された仕事は、某企業の海外法人顧客からかかってくるお問い合わせの電話をさばくという保守系の仕事。いわば法人相手のコールセンターですね。

 

海外法人顧客対応ということもあり、24時間365日体制で電話を見る必要がありました。そのためシフト制で朝と夜の2つに分かれており、朝は9:00 – 17:00で夜は17:00 – 9:00という鬼畜な体制が敷かれていました。

 

日本には、僕が務めていた企業よりも過酷な仕事環境は探せば腐るほどあるでしょう。事実、仕事をきついと思ったことはほとんどありませんでした。

 

ただ、やはり夜勤は身体と心への負荷が大きかった。しかも帰国後のカウンターカルチャーショックがまだ完治していない状況で夜勤をしていたので、そのまま徐々に身体と心のネジが狂っていきました。

 

海外生活後の(しかもペルー後の)東京はマジで辛かった

 

個人的に東京は、日本の良いところ・悪いところが集約されている場所だと思っています。

 

そのどちらを挙げてもキリがありませんが、海外生活後(特にペルー後)の僕にとっては、「誰もが忙しそうにしていて、心に余裕がなく、他人のことにはかまってられない」というような東京独特の環境がとにかく無理でした。

 

ペルー後の僕は特に、「競争心よりも共創心」の精神で人類と地球を愛して生活していきたいと思っていたのに、東京が競争心の塊のように見えてしかたなかったんです。

 

カリフォルニアやペルーでは道行く人と目が合えば笑顔であいさつしていたのに、東京では人と人が目を合わせることもない。

 

満員電車の中では乗客すべてうつむきながらスマホをいじり、まるで感情をなくしてしまったかのような顔をしている。

 

満員電車のおかげでお互いの距離がこんなにも近いのに、心の距離感は今まで訪れた地球上どの場所よりも遠い

 

田園都市線直通半蔵門線に乗って通勤している間、そんなことばかりを考えながら、今は遠いカリフォルニアやペルーの思い出にふける毎日。

 

繰り返しになりますが、「それはそれで良し」とできればよかったもののこの頃の僕にはそれができず。ネガティブな側面ばかりに目が行き、東京生活をエンジョイすることができませんでした。

 

そんなこんなでうつを発症

 

2016年10月、そんな生活を続けた僕の中で何かが崩壊しました。

 

もう、周囲が灰色にしか見えなくなったんです。

 

何をするにも身が入らず、何もしたくない。心が空っぽで、何も感じたくない。

 

毎晩「明日このまま目が覚めなければいいのに…」と考えながら眠りにつき、朝目が覚めては変わらない現実に呆然とする。

 

何とか出勤できていたものの、会社では誰とも話したくないし顔を合わせたくもない。変化に気づかれるのが怖かったし、「大丈夫?」とか言われるのを避けたかった。

 

理由はかんたん。「大丈夫?」と聴かれても、大丈夫じゃないけど「大丈夫です」と答えるしかなかったからです。仮に「大丈夫じゃないです」と答えたところで僕が抱えている問題を理解してもらえるとは思えなかったし、その問題を聴いてもらいたいと思える人もいなかった。

 

もう自分ではどうしようもないなと判断した僕は、オカンに電話して相談することにします。

 

症状を話してみたところ、「心療内科に行ってみたら?」と言われたので、すぐ近くのクリニックで診察。

 

スパッと「うつですね」と伝えられます。

 

今思えば帰国した時点でうつの傾向があったと思います。それをそのまま放置して無理して頑張っちゃったことで、どんどん負の連鎖が起こっちゃったんでしょう。

 

「まさか、俺がうつ…?」

 

と、最初は事実を受け入れるのに抵抗がありました。

 

とはいえ、自分の精神状態に異常があるのは明らかだったし、周囲のサポートがなければ生きていけないような状態になりつつあることは理解していたので、いさぎよくうつであることを受け入れようと決心。

 

そのまま家族に相談し、会社に報告。しばらく休職しますが、会社側としては復帰を待つのは難しいということで、事実上辞職を進められ自主退職。

 

その後は、地元の熊本に帰省してしばらく養生することにしました。

 

フリーランスの聖地「まるも」に出会う

 

実家でしばらく養生してある程度症状が回復してきた僕は、やっぱりまた海外を旅したいと思い始めます。

 

このころ、アメリカ時代の元ルームメイトのつてでBusiness Insider Japanというウェブメディアの海外記事翻訳をさせてもらえることに。

 

英語というわかりやすいスキルがあったので、いきなりリモートで仕事ができる状態ができてしまいました。

 

また、そのころどうやってフリーランスの活動を拡大していこうといろいろ調査をしていたところ、千葉県の金谷という場所にあるコワーキングスペース「まるも」を発見します。

 

カルロスさんというメキシコ男子系なブロガーがいるんですけど、何らかの経緯でカルロスさんのブログとTwitterを発見し、そこから金谷のフリーランス系のイベントに参加することに。

 

詳細は省きますが、夜の懇談会で酒のんではっちゃけ過ぎ、人狼で殺された後も気にせずしゃべり続けたことが原因で、最終的にカルロスさんにラリアットを食らうという失態を犯します。

 

僕は飲み過ぎてまったく覚えていなかったのですが、それを見ていた人たちにとっては衝撃的だったらしく、こうして僕は金谷滞在一泊にして「問題児」の称号を獲得します。

 

そこからの流れを手短に話すと、金谷の田舎加減とフリーランスのコミュニティができているまるもは、フリーランス駆け出しの僕にとって素晴らしい環境だったのですぐに移住を決意。

 

酒を飲まなければ来てもいいよ」ということだったので、そのまま移住し千葉の金谷といすみ周辺で半年ぐらい過ごすことになります。

 

田舎フリーランス養成講座のメンターをやらせてもらったり、いすみ市やまるものおもしろいコミュニティを介していろんな人と知り合えたりと、とても充実した時間が過ごせました。

 

念願の海外ノマドワーカー生活をスタート

 

まるもで心身の状態とフリーランスとしての基盤を整えた僕は、2017年9月から憧れだった海外ノマドワーカー生活をスタートします。

 

まず向かった場所は、ノマドワーカーの聖地であるタイのチェンマイ。

 

ノマドを始めてからは移動が多くなりちょっとややこしいので、時系列でまとめます:

 

チェンマイ → 日本(年末)→ バリ(インドネシア人の彼女ができる) → プーケット → 日本 → バリ → チェンマイ → クアラルンプール → チェンマイ

 

という感じで、東南アジア周辺をうろうろしつつ、2018年11月にチェンマイに戻ってきてしばらく身をおくことに。

 

現在: インドネシア人のフィアンセとチェンマイで幸せに暮らす

 

 

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She will be my wife. #結婚します #gettingmarried

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上でも少し触れてますが、バリ滞在中に出会ったインドネシア人のシンタちゃんとお付き合いすることに。日本からまたバリに戻ったのもそれが理由で、シンタに会いに行くため。

 

シンタは当時クタビーチのハードロックカフェで働いていました。が、僕はまだ旅を続けたかったので、「仕事を辞めて俺についてきてくれ」といい続けて説得。

 

それからいろいろとありましたが、チェンマイの暮らしやすさが忘れられず最終的にチェンマイに戻って今は二人で幸せに暮らしています。

 

というか、幸せすぎて焦っています。日本でうつ病を発症していたときのことが嘘のようです。幸せってこんな簡単に手に入るものなんだと、愛するチェンマイで愛する人と暮らしてみて、改めて幸せのシンプルさに気がつきました。

 

また、余談ですがこの度シンタとの間にベイビーができたことが発覚し、これから家族を持つことになります。

 

インドネシアと日本の国際結婚で、しかも彼女はイスラム教で異教徒との結婚が認められていないため、僕は近日中にイスラム教に入信予定です。これから何が起こるか未知ですが、変化の多い、楽しい日々になりそうです。

 

人生の目標 / 僕がブログを書く理由

 

ここからは僕の人生の目標とブログを書く理由についてお話します。

 

最近、戦争について考えたことはありますか?

 

突然ですが、最近「戦争」について真剣に考えたことはありますか

 

あなたも昔の僕と同じように、平和な今の日本で普通の暮らしをしていれば、終戦記念日ぐらいしか戦争のことを意識する日はないのではないでしょうか。

 

この記事を読んでくれているあなたは、僕と同じように戦争を知らない世代の人だと思います。だから、戦争のことを日々意識しなくても無理はありません。

 

しかし、戦争を知らない世代の日本人として、僕たちにできること・やるべきことがたくさんあると思っています。

 

ペルーで受けたシャーマンの儀式を通して僕が学んだ一番のことは、僕らのおじいちゃん・おばあちゃんの世代が第2次世界大戦で経験した苦しみ・悲しみ・飢え・怒りの深さです。

 

ペルーでの経験に関する詳しい内容は別の記事にまとめますが、手短に話すと、僕はシャーマンの儀式なかで母方のおじいちゃんの戦時中の記憶にアクセスする機会に恵まれました。

 

僕のおじいちゃんは戦争で家族をなくしています。生き残ったのは当時まだ少年だった彼だけです。その他の家族はみんな徴兵されたり、戦火に巻き込まれたりで亡くなってしまいました。

 

その体験の記憶は僕のDNAに刻み込まれているらしく、儀式中にそのDNAがアクティベートされて、おじいちゃんが戦時中に経験したあらゆるネガティブな記憶が僕の意識化に蘇ってきたのです。

 

(精神世界の話すぎて信じられないかもしれませんが、科学的にも先祖の記憶がDNAに保管されているということは徐々に明らかになっています

 

家族や友人を亡くした悲しみ、愛する人たちを亡くしたことから生まれる怒り、四六時中止むことがない飢え、といった戦争を知る人たちでしかわからない、ありとあらゆる苦しみが膨大な量となって意識の中に流れ込んで来る。

 

僕は、その情報の渦を前に、ただ泣き叫ぶことしかできませんでした。

 

しかし、その絶望のあとにも、僕のおじいちゃんはたくましく生きていきました。

 

そして彼はおばあちゃんと出会い、僕の母が生まれ、僕の母と父が出会い、僕が生まれます。

 

おじいちゃんは、そうやって生まれた僕に無条件の愛を持って接してくれました

 

田んぼを耕すおじいちゃんのトラクターの天井で兄弟一緒に遊んだり、近所のスイミングプールに連れてってくれたり、採れたての野菜や果物をたらふく食べさせてくれたりと、僕がおじいちゃんと過ごした時間は穏やかで心あたたまる時ばかり。

 

その時、僕は気づいたんです。

 

想像を絶するほどの戦争の苦難を乗り越え、僕の存在を無条件に受け入れてくれたおじいちゃんの愛の深さに。

 

人を憎んでも憎んでも憎みきれないほどの苦しみや悲しみを背負っているはずなのに、そんなことは一切口にせず、ただただ孫をかわいがってくれたおじいちゃん。

 

「祖父にかわいがってもらった」という、今まで当たり前だと思っていたことが、どれだけかけがえのないことだったか。

 

26歳の夏、僕は初めておじいちゃんがくれた愛の深さに気づきました

 

戦争を知らない世代の日本人として、僕たちができること

 

僕ら戦争を知らない世代の日本人には、僕らのおじいちゃん世代が経験した傷が刻み込まれています。普段意識することは少ないかもしれないけれど、僕らの世代は、無意識のうちに僕らのおじいちゃん世代が受けた傷を癒やす過程にいます。

 

だから、僕らはすでにDNAレベルで理解しているはずなんです。

 

この世にもう争いはいらないことを。

 

この世にもう憎しみはいらないことを。

 

この世にはもっと愛が必要だということを。

 

僕ら世代の日本人は、先代の経験から、すでに多くの悲しみを知っています。

 

これから、世界をもっと平和で幸せな場所に変えていく。それこそが、争いや殺し合いで受けた悲しみを感覚的に知っている僕たち世代の日本人にできることだと、僕は信じています。

 

僕の人生の目標 / ブログを書く理由

 

僕がブログを書く理由は、世界をもっと平和で幸せな場所に変えていく仲間が欲しいこと。それが一番の理由です。

 

そして、今現在の僕の人生の目標は地球上から精神疾患をなくすことです。

 

僕自身が日本社会に再適応できずうつを発症し、海外に飛び出して心身ともに健康を取り戻した経験から、少しでも同じような境遇に悩む人たちの助けになりたいと思っています。

 

この目標を達成するために今できることは以下の3つ:

 

  • リモートワークの推進
  • 英語力の向上
  • 精神を整える方法

 

まずはこの3つから取り組んでいければと思っています。

 

リモートワークの推進

 

リモートワークを初めてやがて3年、2020年にはパパになる予定の僕。その過程でリモートワークの恩恵を受けまくっている僕は、日本社会にリモートがもっと受け入れられていく体制が必要だと思っています。

 

理由は多々ありますが:

 

  • 通勤などの物理的負担を軽減することにより、お父さん・お母さんがもっと家族や子どもと過ごす時間が増える → 幸せな家庭が増える
  • 仕事と生活のバランスが取りやすくなることで、日本社会全体のウェルビーイングが向上する → 社畜・過労死など、世界的に見ても劣悪な日本の労働環境を改善できる
  • 移動のハードルが下がることで、視野を広げる機会が増やせる → 従来的な教育により個性を抑圧されて育った日本人の考え方やその後のキャリアを多角化できる

 

などのメリットが大きいと考えます。

 

リモートワークを獲得する方法や僕自身の経験などを発信することで、少しでも日本のリモートワーク推進に貢献していきたいと思います。

 

英語力の向上

 

アメリカに5年住んで英語を身につけたことで、僕の人生は180°変わりました。ただの落ちこぼれ大学生だった僕が、今では世界を旅しながら働き、世界中に友だちがいて、世界のあらゆる知識にアクセスできるようになりました。

 

僕はそのような機会に恵まれたので良かったものの、日本人の英語力はいまだに先進国の中でも最低レベルです。

 

これからの世界ではますます英語でのコミュニケーション能力が求められていくうえに、少子高齢化に歯止めがかからない今後の日本では1人あたりに高い労働力が求められるはず。政府の対応を待っていても遅すぎるので、ボトムアップで日本人の英語力を高めていく流れが必要です。

 

精神を整える方法

 

大きな範囲で精神を整え、もっと良い生活をおくるためには何ができるか・何を避けるべきかを研究することが僕の生きがいです。

 

海外でした経験や得た知識などを発信しつつ、この分野において大きな価値を日本のコミュニティにもたらせればいいなと思っています。

 

僕たちはスターダスト

 

さて、本当に最後になりますが、一つだけお話したいことがあります。

 

僕が大好きな天体物理学者にニール・ドグラース・タイソンという人がいます。天体物理学という超絶難しい学問をやっている人ですが、ユーモアあふれるエンターテイナーです。

 

僕はこの人が宇宙と人間の起源についてしゃべる以下のYouTube動画を見て、世界の見え方が変わりました。ぜひ下の動画を見てみてください。

 

 

見てもらえたでしょうか? そうです。僕たちはスターダスト僕たちは宇宙の一部です。

 

今の僕たちは普段の生活ばかりに意識がいき、この壮大な事実を意識することがあまりありません。

 

親がうざい、学校がだるい、仕事がつまらん、嫁が家事しない、夫がくさい、上司がエロい… などなど、生きていると色んな悩みや不満はでてきます。

 

しかし、あなたが今ここに存在しているのは、138億年前に起こったビッグバンから地球が誕生し、生命が生まれ、人間が現れ、文明が生まれ、日本という国ができ、戦争を乗り越えたおじいちゃん・おばあちゃんが日本を復興し、あなたのお父さんとお母さんが出会って、あなたが生まれてきたからです。

 

それ自体が、奇跡以外のなにものでもありません。

 

さんまさんの言葉を借りて言えば、「生きてるだけで丸儲け」です。

 

僕たちの存在は、宇宙の広さから見ればとてもちっぽけであると同時に、宇宙の歴史から見れば壮大でもあります

 

だから、僕たちは、あなたは、何でもできるし、何してもいいんです

 

だから、自分らしく生きましょう。自分らしく生きて、もっと良い未来をみんなで一緒に作っていきましょう

 

最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました 😄

 

もしご感想等あれば、ぜひコメントかお問い合わせフォームからご連絡ください。時間はかかるかもしれませんが、必ず返信させていただきます😅

 

それではまた会う日まで。

 


    1 Response to "イモトケイタロウのプロフィール"

    • サンダリー

      文章を読んで幸せな気分になりました。
      たくさんの出来事が起きる人生だけど、
      自分らしさがたいせつだなぁって

      臆することなく色々な景色を見て感じて
      凄いね。負けずにまだまだ頑張ろうと思えたよ

      たくさん助けてくれてありがとう
      いつまでも幸せに

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